<報告>読書会vol.38 トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』

すっかり遅くなってしまった前回(11月)の読書会のご報告です。1ヶ月半以上たっていて、記憶が曖昧なところもありますので、会の報告というよりは、「難解さ」についてちょっと考えてみました、的な内容になっております。ご容赦ください。(この会の告知はこちら

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もっとも難解な作家の一人と言われている作家ピンチョンの、もっとも読みやすいテキストと言われている『競売ナンバー49の叫び』。結局難しいのか読みやすいのかわからない表現ですが、まぁやはり決して読みやすくはありません笑。ミステリー風味ということもあって、先が気になる、というところはありますが、謎は解かれないというかむしろ深まるし、いわゆる一般的なミステリ小説を読むとき得られるような、謎解きのカタルシスはありません(この点ではポール・オースターの『シティオブグラス』が思い出されますが、オースターの方が断然エンタメ性が高いです)。

「マジックリアリズム」の定義に相応するかということはともかく、私が小説を読むときに感じられる「難解さ」は、幽霊とかスピリチュアルな超現実(に集約される)、ということではなくって、すごくわかりやすいレベルでいうと、普段私たちの頭のなかで渦巻いている、整然とせず・突拍子もなく・矛盾もたっぷりな言葉が、そのまま書かれているという点があげられます。心のなかで思っていることであれ、発する言葉であれ、小説の中の登場人物はたいてい、「てにをは」も文法上の間違いもせず、それが特に物語上(キャラクター設定上)必要でなければ、どもりもしなければ、言い間違いも勘違いもおかさない。非常に整理された言葉が並べられているわけです。「噛み合わない会話」がそれとして描かれるとき以外は、会話はたいてい噛み合っている。物語上必要でない会話は語られない。でも実際はそうじゃない。

しかし、「難解なテキスト」というとき、この「難解さ」ってなんなのでしょう、と。専門用語が多用されるとか、超現実的なSF世界の絵が描きにくいとか、登場人物の名前が覚えられない(ロシア文学あるある)など、「難しさ」にはいろいろとあると思いますが、ピンチョンの文章の難解さというのは、「マジックリアリズム」に分類されているということもあり、現実や日常の描写と、非日常的なもの超現実的なものの表現が同時になされていること、なのでしょう。

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そして大抵の小説は、神の視点か「主役」である登場人物の一つの視点で描かれることがありますが、様々な人物の視点、整然としていない思考や語り、が同時に並べられたとき、とても混乱してしまう。幽霊やスピリチュアルに限定されない、と書きましたが、脳はしばしば私たちを騙したり都合の良い映像を見せたりしますから、他の人が見ている現実とは違った絵が見えてくる場合もある。それぞれのリアルに同時に触れるという超現実。そうした、いわゆる神「客観的な現実」みたいなものをカッコに入れたときのリアルの難解さ、みたいなものがあるっていうことでしょうか。

40年近く生きていて言葉に触れる時間もまぁまぁ多い人生だと思っている私でも、最近になって読み間違いをしていたと気づいた漢字があって、「うわっ!」となりました。あまり日常会話で使う言葉ではなかったので気づかなかったのですが、これまで私の頭のなかでは、わけわかんない、wordでは決して漢字変換されない単語をずっと言い続けてたわけですよ(恥ずかしながら、実は結構その手の間違いはときどきあって。漢字変換しようと思ったらできず、「あれ?おかしいな?」と。そのとき初めて読み間違いに気がつく・・・)。しかも最近、自分の頭の中だけで言い間違えるだけでなく、その間違いを大勢の前で口にしたのです。しかも何回も。誰も何も言わなかったのですが、多分みなさん、私が何を言っているかわからなかったかもしれない。けど現実は、そのまま流れていくのです。わけわからないことを抱いたまま。

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「私どもは運がいいんです。ローレン・パサリンと言えば西海岸で最高の競売人ですが、そのひとが本日叫ぶことになっています」
「何をすることになっているんですって?」
「われわれのあいだでは、せり値をつけることを『叫ぶ』というのです」とコーエンが言った。
「あなた、ズボンの前があいています」とエディパはささやいた。

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トマス・ピンチョン/志村正雄訳『競売ナンバー49の叫び

とりたてで意味のない読書会