読書会vol.51 キム・エラン『走れ、オヤジ殿』

2月のブックスドラフトも終わり、3月は通常運転。51回目の今回は心機一転、何か新しいものをと思い、選んだのは韓国文学。最近また第三次韓流ブームがきてるなんて言われてて、文学でもチョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジョン』が話題になってますね(今ふっと紀伊国屋のオンラインショップ見たら「ウェブストアに1790冊在庫がございます」。積んでおりますなー)。

トレンドに乗るというわけではないんですが、いろいろな国の作品を読んでいきたいと思っても、欧米に偏りがち。日本以外のアジアの国の作品を読みたいとずっと思っていたのです。今回はデザインが素敵な晶文社の「韓国文学のオクリモノ」シリーズのなかから、迷ったのですが、私と同世代の作者ということで、キム・エラン『走れ、オヤジ殿』をピックアップしました。

「臨月の母を捨て出奔した父は、私の想像の中でひた走る。今まさに福岡を過ぎ、ボルネオ島を経て、スフィンクスの左足の甲を回り、エンパイア・ステート・ビルに立ち寄り、グアダラマ山脈を越えて、父は走る。蛍光ピンクのハーフパンツをはいて、やせ細った毛深い脚で――。」

残念ながら、まだ韓国文学の多くは文庫化されていないので、単行本(ソフトカバー)となりますが、買って嬉しくなるような、シリーズ全部集めたくなるようなデザインです。これぞ、本の楽しみ!とウキウキと眺めております(今度、好きな装丁の本について話す会とかやりたいなー。ジャケ買いの出会い、失敗談など!)。思えば、韓国映画はちょこちょこ見てるんですけど(not ヨン様)、翻訳韓国文学って読んだことがないかもしれない。先日ようやく初めて食したチーズタッカルビの味を思い出しつつ読みました。

今回の読書会、相方であるカツマタ氏、急遽不在となりました。会場は新大久保。新大久保に来るのは1年ぶりくらいでしたが、いやぁ土曜の夜ということもあって噂通りものすごい人、人、人!しかもその主役は10代~20代の若者たち&観光客。ほんと、竹下通りのよう。。。ここではクレープじゃなくて、チーズハットグですけど。ようやく入れた店・辰家(ヂンガ)で、注文しすぎた料理の多さににウンウンいいながらスタート。

今回の本は短編集だったのですが、タイトルにもある「オヤジ」たちのありようを描く作品が多くありました。それは1997年のアジア通貨危機によって、それまでの家父長的な父親像が揺らぎ、家族の在り方が変容していく、その渦中に作者がいたということが深く関係しています。

晶文社の公式ツイッターより。翻訳者の古川綾子さんと担当編集者による 『走れ、オヤジ殿』刊行記念トークイベントの様子。

急に飛び出して世界を走る父。一人で暮らしている娘のところに突如現れて、そのまま居座り、布団+テレビの前から動こうとしない父。本当は天才でも何でもないむしろアホであるということを受け入れない兄と、そんな長男の幻想を共有するほかない父。久しぶりに会ったのに自分のことに気がつかない父。

「(父は)『お前、父さんの仕事が恥ずかしいのか?』と尋ねた。それまで一度も恥ずかしいと思ったことのなかった父親の職業が、父親がそうした質問をした瞬間から恥ずべきものになってしまった」(紙の魚)

突如、父という存在が何か別のもののように感じられる瞬間。それはもちろん父親の失業=経済力がなくなる、ということだけではなくて(仕事は象徴的ではありますが)、それぞれの関係性によってさまざまなレベルで起こり得ることだと思います。かつてよく言われていたのは、こぶしを使う喧嘩で父親に勝てるようになった瞬間、など。もっとも軽蔑する政治・思想的見解を持っているのを知ったとき、など。

そのときひとはあきれ、時には怒り、そして悲しんだりするわけですが、そこからまた新たな親子関係を築いたり、築かなかったり、築けなかったり。本書の帯には「愛する人へのぎこちない挨拶」とのコピーが掲げられていますが、まさに描かれているのはそんなぎこちない愛(コンビニという空間とその店員に対するぎこちない愛が描かれた作品「コンビニへ行く」も印象に残っています)。

韓国といえばソウルの風景しか浮かんでこない情けなさを感じつつ、いまだあまり知らない隣国韓国に思いを馳せた新大久保の夜、でした。

※この日は、料理に夢中になりすぎたのか、1枚も写真を撮りませんでした…。

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そして突然ですが!わけあって、これから少なくとも半年間ほど、ハードボイルドカツマタ氏は読書会をお休みすることになりました。そのあいだ、どうしようかなぁ…。

とりたてで意味のない読書会

緊張と緩和ーブックスドラフト会議@本屋さん ててたりと

「とりたてで意味のない読書会」と、川口市に昨年オープンしたばかりの「本屋さん ててたりと(B型福祉作業所)」とのコラボイベント、先日美味しく終了いたしました。

今回のイベントは「ブックスドラフト会議」と題した本の交換会。いらなくなった本をそれぞれ3冊持ち寄って、交換するというシンプルなもの。ながら、その交換は、選択希望本の投票というかたちで行われるので、希望のバッティングが発生することはもちろん、自分が持ってきた本(選手)にまったく票が入らない→運がなければ自分が持ってきた本を自分で持ち帰らなければならない、という事態に陥ることもあるわけです。1冊につき持ち時間1分程度で、どうプレゼンし、相手に「欲しい!読んでみたい!」と思わせるかがカギ。

なので、このイベントのポイントは、不用な本ではあるけれど、誰も欲しがらないようなものではだめだということ。妙な恥もさらしたくない、という心理もある(笑)。でも好きな本は譲れないし。。と、持っていく本の選定も意外と悩ましいのです。でもそもそも「交換」や「贈与」ってこういう要素を含んでいるのだと思います。自分が与えられる範囲内で、最大限喜ばれるもの(嫌がられないもの、恥ずかしくないもの)を考える、という意味において。

今回の参加者はててたりとの職員さん、利用者さん、大学講師、通販会社勤務の方々、そしてわたしたち含め11人。本の交換をはじめる前に、まずはのんびり自己紹介をしながらディナー。会場TOI CAFEさんが段取ってくださった、ネパール出身のシェフによるカトマンズ料理(これを目当てに参加した方もいる)をいただきます。想像していた以上に美味で、ほとんどの方があっという間に食べ終えてしまう。。。 シェフのすすめにならって、 フィンガーボールを使いながら手で食べる方々も。 TOI CAFE戸井さんお手製の紫蘇ジュースも人気でした。

ひと段落したところで交換会がスタート。それぞれが持ち寄った本合計33冊がテーブルにならび、1冊づつ本のプレゼンが始まります。実は今回、本のプレゼン(といっても一言二言でかまわないのですが)に不安を感じている利用者さんたちがいました。自分が主催しておいてなんだけど、私もこういった会でしゃべるのが苦手なので、その不安よくわかるところ。「作者とタイトルだけでもいいですよ」とお伝えしたものの、食事中も緊張している様子が伝わってきて、どうなるかなと少しどきどきしていました。精神障害の方々が、「参加する」と決意して会場にきた、それでOKだとも思っていましたし。

けれど始まってみれば、緊張しながらも本に対する思いや、その本を手にしたきっかけなどを自分なりに説明していただけて嬉しかった。 終わったと、お笑いの理論として語られる「緊張」と「緩和」(あるいは「緊張の緩和」)が生むカタルシスを感じられたようで、ほーーーっと一息つきながら「とても楽しかった!」と言われたときには、なんだかいろいろ準備が重なって大変だったけど、開催して良かったなとしみじみ。

私もついついめんどくさくなって避けちゃうときもあるんだけれど、この「緊張」と「緩和」を繰り返さないと、緊張した状況に対応できなくなってしまう。もちろん「緊張」が緩和されずに終わる(端的にうまくいかなかった・失敗だと感じてしまう)ケースもあるわけで、それにとらわれすぎちゃうと二度と「緊張」的な局面に向かえなくなってしまう、と思う。私も十年くらい前の学会発表を終えたときにそのような状態に陥り、しばらく何もできなかった。そんななかでも小さな「緊張」と「緩和」を繰り返して、少しづつ大きな「緊張」に向かっていけるようになったのだが、それは自身を持つために「成功体験を積み重ねる」といった理論に近いのかもしれない(「緊張」と「緩和」を体験する機会は、自身を持つためだけでなく、自身を律するためにも重要。世界に緊張する相手がいなきゃ終わり、だと思う)。

話がずれましたが、そんなこんなで交換会は無事終了。ちなみに私が持参した本は、竹宮恵子『少年の名はジルベール』、西寺郷太『マイケル・ジャクソン』、フェルディナント・フォン・シーラッハ『犯罪』の3冊。ゲットした本は、抽選に外れに外れたこともあって、絶対いらない!と思う本も含め以下3冊。摩夜峰央『翔んで埼玉』、伊坂幸太郎『死神の精度』、飯島愛『プラトニック・セックス』…。

ててたりとさんとのコラボは今回初めてでしたが、早くも(早すぎる!w)「次はどうする?」って話がもう出ているとか(笑)。読書会がこれまで取り上げた50冊を展示販売するブックフェアも期間延長し、ててたりとさんで絶賛開催中ですので(ちゃんと売れているようで嬉しい!)、お近くの方はぜひ足をお運びください。

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本屋さん ててたりと
http://tetetarito.com/
 
とりたてで意味のない読書会
https://www.facebook.com/toridatetebook/

読書会vol.50 レベッカ・ブラウン『体の贈り物』

毎週金曜日の朝はNHKラジオから高橋源一郎の声が聞こえてくる。今朝は翻訳者・柴田元幸のエッセイの話。書庫の整理をしてもらっていた学生が亡くなった、だけど律儀な彼が書庫に残した「ちょっとタバコ吸ってきます」というメモはそこに置かれたまま。いまでもまるで、ちょっとタバコを吸いにいっちゃってるだけ、のような。ねねね、柴田さんのエッセイはそれ自体がまるで小説みたいでね。で、まぁ柴田さんは日本一の翻訳者だろうな、いろんな意味で―――と。

50回目をむかえる1月の読書会は、そんな柴田元幸氏が翻訳したレベッカ・ブラウンの『体の贈り物』(原題:The gifts of the body)。11月の読書会に参加していただいたSpaceトネリコの吉田さんからのご推薦本です。1994年に発表された本書は、LGBT関連の作品に贈られるラムダ文学賞や、ボストン書評家賞も受賞しています。

雨もパラつきとても寒い一月末の土曜日、参加者は反町(たんまち)のフィルモアトリップカフェに集まりました。70年代西海岸カルチャーがギッシリ詰まった、なんともサイケデリックな店内。レベッカ・ブラウンも、西海岸のリベラルな気風の街に生まれ育ったということで選んだお店ですが (かなりこじつけではある) 、ちょっと本の方向性とは違いましたかね(笑)。

エイズ患者者たちを日々ケアするホームケア・ワーカーの「私」による11の連作小説。この先決して良くなることはない・着実に確実に死へと向かうこと、そしてそのプロセスを第三者がケアすること、その風景はとても豊潤。家族同士とは距離感や親密感は異なる、でもだからこそ見えてくる/見せられるギリギリの尊厳や、そこからはみ出してしまういら立ちや悲しみ、恥。話を追うごとにみな確実に死に近づき、「できたことができなくなっていく」というプロセスが切実に描かれていく。

何気ない日常会話のひとつひとつに、莫大な感情が詰まっていて、私はもう、第1話から電車のなかで読んでて涙してしまいました(泣けるからいい、ということではありません)。おそらくここで描かれる物語は家族同士では得られない「ギフト」であって、だからこそケアワーカーという存在の意義を考えたりしました。今回は実際にケアに携わっている(いた)参加者の方から、現場の声を聞くこともできましたし。

こう書くと、なんだかお涙頂戴の感動物語のように思われてしまうかもしれませんが、決してそういうものではありません。ケアワーカーの「私」の語りは実に淡々とその場の風景を描写しますし、淡々と会話します「うん」「わかる」「あ、そうなの?」「そうだね」「うん、わからない。ごめんなさい」。その絶妙な余白に、私たちは自分自身のあらゆる記憶や想像力をぶっこんでしまう。

もう、この本の説明は本当にうまくできません。訳者の柴田元幸さんもあとがきで書いていますが、本の要約をざっとすると「善意はわかるけど、正直言って陳腐な物語」を想像されてしまう。かくいう私も、タイトルからして読む前はそう思っていましたし(笑)。柴田さん「とにかく読んでもらわないと魅力がわかってもらえない」って、それ言っちゃおしまいでしょーと思いますが、はい、そういう小説です。

老いること・死に向かうことは、何かを失っていくことですが、私はそれをどう受け取っていくのだろう。まぁ少しづつ受け取りつつある年齢ですが。

お隣のグループが連れてきていた犬とたわむれる

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レベッカ・ブラウン 柴田元幸訳『体の贈り物』(新潮文庫)
「食べること、歩くこと、泣けること……重い病に侵され、日常生活のささやかながら、大切なことさえ困難になってゆくリック、エド、コニー、カーロスら。私はホームケア・ワーカーとして、彼らの身のまわりを世話している。死は逃れようもなく、目前に迫る。失われるものと、それと引き換えのようにして残される、かけがえのない十一の贈り物。熱い共感と静謐な感動を呼ぶ連作小説」

作業所としての本屋ー本屋さんててたりと@川口

福祉作業所とひとことにいっても、受注作業をメインで行うところ、授産品と呼ばれるオリジナル製品を作るところ、カフェを運営するところ、それらをミックスして行うところなどさまざま。川口市に2018年8月にオープンした「本屋さん ててたりと」はその名の通り、本屋を運営する就労継続支援B型の福祉作業所である。

実はこの本屋、いろいろとつながりがあって。ててたりとの店長カズさんは、「とりたてで意味のない読書会」を一緒にやっているカツマタ氏の知り合いで、数年前に紹介されていた。そのころカズさんは、パンやクッキー作りをメインとして行う別の作業所で施設長をやっていたので、GOEN enen PROJECTや読書会のイベントに出品してもらっていたのだが、そこを辞めて本屋をたちあげることになったと聞き、ビックリ。しかも本屋の名前「ててたりと」とは、私たちの読書会名からアナグラム的につけたそうだ(よく間違えられるのだけど「とりたてて」ではなく「とりたてで」、なんだけどね)。

立ち上げ一か月前くらいにカズさんと新宿で飲んで、こういうゴエンだからいつか一緒にイベントをやりたいねと話していて、しばらく時間がたってしまったのだけれど、このたび読書会が50回という節目をむかえるので、ようやく一緒に何かやろうという運びとなった。いちおう50回の記念なのでそれが表現できること、そして、ててたりとの利用者さんたちも一緒に楽しめ、当然ながらわずかであってもててたりとさんの売上につながること、ということで考えた企画は二つ。

ひとつは、これまでの読書会で読んできた本50冊を、フェア的に販売していただくこと。ててたりとにはポップ作りの達人がいるので、図々しくもすべての本にポップを作っていただくことに!(↓は読書会の本ではありません)

ちなみに本のポップといえば、私も新宿の某老舗大手本屋でバイトしていたとき描いたことがある。スタッフそれぞれがおすすめの5冊の本を自作のポップをつけて紹介するという粋なフェアが行われたとき、私はとある本のポップとして、女性のアンダーヘアを含めたヌードを描いたのだけれど、内心「これ大丈夫かな…」と思っていた。恐る恐る上司にたずねると「え?全然問題ないでしょ!」と言われ、その上司への信頼度が一気に増したという思い出がある(笑)。ちなみに当時大学3年だった私の推薦本5冊(文庫・新書に限る)は、サリンジャー『フラニーとゾーイー』(新潮文庫)、松浦理英子『親指Pの修業時代 上・下』(河出文庫)、中上健次『枯木灘』(河出文庫)、ジョージ・オーウェル『ウィガン波止場への道』(ちくま学芸文庫)、エドワード・サイード『知識人とは何か』(平凡社ライブラリー)。ヌードのポップは恐らく『親指Pの修業時代』だろうか。それを見ながらお客さんが笑ったり、顔をしかめたりしていたのが思い出される。購入につながっていたかは今となっては謎だが。。

話がずれたが、もうひとつの企画は、ててたりとのスタッフも交えた「ブックスドラフト会議」の開催。過去3回行っているこの会は、簡単にいえば本の交換会。参加者それぞれが手放してもいい本を3冊持参して、内容をプレゼン。すべてのプレゼンを聞いたあとに、それぞれ欲しい本を1冊ずつ指名投票していく、というゲーム的なもの。単純なルールだけれど、欲しい本がゲットできない(むしろいらない本を押し付けられる)のは嫌だし、自分が持ってきた本が売れ残るのは(さらにいえば自分が持ってきた本を自分で持って帰るのは)悲しい。参加者の傾向もわからないので、持参する本の選定もなかなか難しいのだ。

ブックスドラフト会議の会場は、ててたりとさんも懇意にしているという蕨駅前のtoi cafe。ピアノがあって、レコードがたくさんあって、コーヒーにこだわっていて、ちょっと変わったマスターがいて、という楽しくなりそうな場所。料理はなぜかカトマンズ料理になる予定。

狙っていたわけでは全然ないのだけれど、のんびりと続けてきた読書会と、突如関わることになったフクシ関係、これまでバラバラにやってきた、点と点だった活動がこんな風につながって、素直に嬉しい。本好きのててたりとの利用者さんたちと、どんな話ができるのか、どんな会になるのか。もちろん一般のお客さんの参加も募る。声高に仰々しくもしくはトレンディ?に「ダイバーシティ」を語らずに、こうした自然な流れで、同じ時間を楽しめるのが理想。そういう意味では「ゲーム」って偉大。

「ブックスドラフト会議」@TOI CAFEは2月23日(土)19:00~。 「とりたてで意味のない読書会」のブックフェア@本屋さんててたりとは2月17日(土)から、私たち読書会メンバーもスタッフの皆さんと一緒にディスプレイをする予定。

ててたりとさんについては、また別の機会に書こうと思います。今回はイベントのお知らせまで。

読書会vol.49 マヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』@喫茶ニット

今回は、前回の参加者、凄腕イベントプロデューサーA&ANSの矢田さんからのご推薦本、アルゼンチンの作家マヌエル・プイグによる『蜘蛛女のキス』。アルゼンチンで出版されたのは1976年、その後1979年にアメリカで英訳され、1985年にはエクトール・バベンコ監督によって映画化され(アメリカ・ブラジル合作)、主演のウィリアム・ハートはアカデミー賞主演男優賞を受賞している。集英社文庫において日本語訳が出たのは、その3年後の1988年(2011年に改訂版が出ている)。

私は未見だが、映画はアカデミー賞ほかさまざまな映画祭で賞をとっていることもあり、私や読書会周りでは「映画は見ているけど…」という声が多かった本作品、未成年者に対する性的行為で懲役となったトランスジェンダーのモリーナと、政治犯として収容されている革命家のヴァレンティンの(ほぼ)二人しか登場しない。全編にわたって、二人の会話によって物語が展開されていく。

モリーナ役のウィリアム・ハート

会話といってもその基本となるのは、モリーナがヴァレンティンに話して聞かせる、自分のお気に入りの映画のストーリー。驚くほど細部にわたって映画を描写するモリーナだが、もちろんそれはモリーナの解釈によるものであり、本当のところはわからない。考え方が全く異なるヴァレンティンは、しばしば茶々を入れ、批判をし、耳をふさぐが、どんな「物語」であっても牢獄という閉じられた空間においてそれがいかに貴重で、希望であることか。

監獄(社会から隔離された状況)における文化の貴重さというと、フランク・ダラボン監督による1994年のアメリカ映画「ショーシャンクの空に」(原作はスティーブン・キングの『刑務所のリタ・ヘイワース』)のあるシーンをめぐる、今は亡き父との会話を思い出す。劇中で、のちに脱獄に成功させる囚人のアンディは、監視の目を盗み、図書室から刑務所全館に音楽を流すというシーンがある。それはモーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」からの一曲、囚人たちは突如流れてきた音楽にびっくりし、じっとスピーカーを見つめ聴き入る。刑務所の中で厳かにクラシック音楽が流れるそのシーンは、映画だからこそ説得力のあるシーンであるといえよう(原作にはないようだ)。

囚人には、モーガン・フリーマン扮するアンディの仲間も含めアフリカ系アメリカ人もいるし、オペラなんてものに縁がなかったようなものたちも多いはず。そんな状況における「フィガロの結婚」。ブルース/ソウル至上主義だった父は「こんな音楽じゃなくてさぁ」と鼻で笑ったのだが、父のそんな至上主義にうんざりしていた私は、「いや、そうじゃなくて、この状況(環境)で聴く音楽であるということを考えるべき!」と反発したのだった。20年以上ろくに聴いていなかった音楽、そしてそれが思いがけず流れてきたら、どんなものでもギフトだと感じるのではないか。たとえそれが(私の忌み嫌う)ZARDの「負けないで」みたいな曲だったとしても。

革命に燃えるマッチョで学もある男ヴァレンティンは、夢見がちで自分にとって都合の良い解釈で映画を語るトランスジェンダーのモーリスを最初は軽蔑している。けれどメタメタに絶望に打ちひしがれた状況において、モーリスのポジティブさはやはり救いになる。かいがいしく汚物の処理をしたり、布団や差し入れの果物を分け与えたり。。。安易ではあるが、まるで母のような(しかし「母的」役割をするのはここでも「女役」である)。実はモーリスの背後には大きな力が控えていて、役割をもってヴァレンティンに近づいていたのだけれど、モーリス自身も次第に当初の目的が揺らぎ、ヴァレンティンに惹かれていく。そして二人は慰めあうかのようにキスをしセックスをするのだけど。

今回唯一の男性参加者であり、いわゆる”ノンケ”であるカツマタ氏に、もし自分がヴァレンティンと同じ状況下にいたら、モーリスとセックスするかと聞いてみた。するとカツマタ氏はしばし考えて、「うーん、それはないと思います」と答えた。その返答は尊重しつつも(そりゃどんな状況だって、選び拒否する権利はある!)、リベラルで開かれた考え方のカツマタ氏ですらそう答えるのを見て、私はふと、上記で書いたような(ショーシャンクのある場面をめぐる父との会話で感じたような)極限状態における渇望への想像が、というかそういう欲望も持ち得るであろうと表明することが、男同士のホモセクシャルではとかく難しいのかの、と感じたのだった(ついでにいえばこれは、男同士のホモセクシャルであると同時にホモソーシャルである。男と女であったら二人の友情や愛情のやり取りは、これほど感動的に受け止められたであろうか?)。

そんな風にいつもよりも色っぽい(?)会話が続いた今回の読書会。喫茶ニットが20時までだったので別の場所へと移動。飲めない方もいたということもあって、今回は2軒目も喫茶店(酒がある、という条件はつけさせてもらったが)に行く羽目になった。テーブル筐体が置いてあるまさにレトロな喫茶店。何も食べていなかたので、数少ないメニューの中からいくつか頼んでみたが、「うーーん。。。」となってしまうまさにレトロな喫茶店。

マヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』(集英社文庫)

ヘクトル・バベンコ「蜘蛛女のキス スペシャルエディション(DVD2枚組)」


Spaceトネリコで『クリスマス・キャロル』

旅気分で、茅ケ崎の「Spaceトネリコ」さんで先日行われた読書会にお邪魔しました。読書会といいつつ、それっぽい写真がまったくないが、この日の本、ディケンズの『クリスマス・キャロル』にちなみ、一週間早くちょっとしたクリスマスの夕べ。

作中にも出てくるイギリスのクリスマスのお菓子「クリスマスプディング」、主催者のチコさんが作ってくれていて、本場にならって、ブランデーをかけて火をつける。

産業革命後の工業化・都市化を受けて、失業者問題や児童労働、長時間労働など、さまざまな社会問題に溢れていたイギリス・ロンドンの1843年当時、あまりにもクリスマスがないがしろにされているという危惧から、この物語を書いたというディケンズ。いわゆる「家族で過ごす博愛的なクリスマス」という“クリスマスファンタジー”はこの小説が蘇らせ、補強・固定化され、現在にいたる…のだそう。

商業用のクリスマスカードの発売、クリスマスクラッカーの発明、ツリーを飾る習慣の導入など、イギリスのクリスマスの定番となったあれやこれやは『クリスマス・キャロル』の刊行から5年くらいに生まれたものだという。なにせ、発売1週間で6千部売り上げる大ベストセラーとなった本書。それほど人びとはクリスマスファンタジーを求めていた、ということだろう。

「フン、クリスマスね!おおきなお世話!」と、甥からのクリスマスのお誘いも、寄付のお願いも無下に断るスクルージ爺。誰もがきっとわずかなりともスクルージ爺の要素を持っていると思うのだけれど、当時のロンドンの社会状況を重ねながら読み進むにつれ、なんとなく「ああ、クリスマスってこういうものなのね」という気分になってくる。もちろん、日本のそれとは全然違うわけだが(そういえばうちの読書会では、10月にクリスティの『ハロウィン・パーティ』を読んで、イギリスのそれと日本の今の例のアレについて考えたところだった)。

10代終わりに読んだときは、なんとも思わなかったのだけれど、今回改めて読んだら思うところあったのは、本書に登場する過去・現在・未来にスクルージを連れていく幽霊たちに、まんまと私も連行されたということか(それは端的に、年を取ったともいう笑)。

そんなあれこれを思ったトネリコさんでの読書会。参加者のみなさまも素敵で、読書会後の忘年会にもお邪魔させていただきました。暖炉が燃え、ワインが揺れ、お菓子をつまむ…なんともまあクリスマスなんでしょう!もっとも私はそのあと、ハイボール飲みましたけど。

ディケンズ『クリスマス・キャロル』(新潮文庫)

読書会vol.48 嶽本野ばら『ミシン』

2軒目の沖縄料理居酒屋にて

48回目となる次回読書会は、嶽本野ばら著『ミシン』(小学館文庫)を読みました。”乙女のカリスマ”と呼ばれていた野ばら氏、映画がヒットした『下妻物語』(2002)が有名ですが、2000年に発表された本作は、野ばら氏の初期衝動が詰まっている小説デビュー作。パラパラっとめくっただけで、圧倒的な洋服への愛や、乙女の生きざまに、心がザワザワしてきます。きっと、私自身の”あの頃”の気持ちがよみがえってきて、懐かしくも、そこに「何か」置いてきてしまったような気がして、切なくなるからかもしれません。。。

仕事柄「服が売れない売れない」とぼやいている私ですが、作中に並ぶブランド名(記号)の数々、「まずはデパートメントに行こう。逃避行に先立ち、買いたいものがあるんだ」なんて文章を読むと、単純に「あの頃は良かった」なんてことは申しませんが、少し泣けてきます。

私は、野ばら氏のデビューエッセイ『それいぬ―正しい乙女になるために』(1998)を読んで、京都の河原町の老舗喫茶「ソワレ」に、フルーツポンチ食べに行ったクチですが、今回の会場も野ばら氏作品にはぴったり?な横浜は関内にある純喫茶「コーヒーの大学院 ルミエール・ド・パリ」。横浜近辺をフラフラしているカツマタ氏は、よくこの店の前を通っていたそうで、「ついに来ましたか!」、と(笑)。

この日は横浜スタジアムで特に催しもなかったようで、到着した19時頃にはすでにひっそりとしていた関内の街。そんな街でぼうっと光っていたのが、今回の会場「コーヒーの大学院 ルミエール・ド・パリ」の赤い看板。表には甲冑が飾られ、赤が基調となった店内には、大理石の壁、きらびやかなシャンデリア、ステンドグラス、そしてなぜか熱帯魚の水槽もあって、怪しさ満点。日本の古き良き喫茶店のありようを感じさせる、ごちゃまぜ感。
 
そこでページをめくった、『ミシン』。雑貨店で働く”ボク”と、そこに突如現れる全身Vivienne Westwoodで固めた少女との会話なき逃避行「世界の終わりという名の雑貨店」。ファッションブランドmilkをまとったパンクバンドの女性ボーカル”ミシン”と、ミシンに恋し自身もmilkのブティックに通いつめ、ついにはバンドのメンバーになって心を寄せ合う少女二人の物語「ミシン」の2作品がおさめられています。
 
あらすじからもわかるように、ファッションがポイントとなっている作品。というか野ばら氏にとって(野ばら氏が考える「乙女」にとって)、”お洋服”は非常に重要なもの。私であることを肯定してくれるものであり、そして社会から身を守る「鎧」でもあります。このあたりの「お洋服への愛」が、理解しづらく「??」となってしまった男性もいたようですが、女性参加者には大なり小なり身に覚えがあったようです笑。しかしまぁ、都築響一が『着倒れ方丈記』で撮ったような、お洋服(ブランド)の収集が注目されたのも今は昔。ユニクロやファストファッションの時代を経て、メルカリで売る・手放すことを前提としたブランド買いの今、ここで描かれているような”お洋服への愛”に触れると、隔世の感があります(もっとも、メルカリでやりとりされている服もユニクロが多いようですが。ユニクロが二次流通価値があるという時代、というべきか)。
 
どちらの物語も、本当は一つである自分の片割れ(ツイン)を見つけた喜びと、でも結局は一つになれない(なれなかった)悲しみが描かれています。「アナタとワタシ以外どうでもいい」という世界はいかにも「箱庭的」だという指摘もあったけれど、実際二人にとっては、周りの奴らは笑っちゃうほど単細胞な「へのへのもへじ」でしかなく、世界なんてどうでもいい(この辺が00年代の”セカイ系”とは異なるところである)。こういう「幼さ」が、ある意味「乙女」の強さであって、大人になるにつれ失われていくものなのかもしれません。実際野ばら氏も2016年のサイゾーのインタビューで「僕の作品って“はしか”みたいなもので、ある年代になったり、ある程度社会経験とかを経たら、醒めていく。通過点なんですよ」と述べています。
 
サブカルチャー研究の本山ともいえるイギリスでは、70年代から、多くのサブカルチャー研究は声が大きな男性中心の文化しか重要視しないけれど、少女たちはベッドルームのなかで密やかに文化を通した抵抗をしてきたと指摘してきましたが、いかにも夢みがちで逃避的な「乙女文化」は、既存の社会の価値観の拒否・否定であるともいえます。汚くて無教養で美意識のかけらもなくそして暴力的な”not 乙女”な奴らたちなんて知らない!美しいものだけに囲まれたい!その精神性こそが、乙女≒ロリータがパンクと接続されるゆえんでしょう。もちろんそれは、先にあげたように「通過点」であるのかもしれませんが。
 
「貧乏であることは僕の中で、ちっとも悪いことではありませんでした。しかし貧乏くさいことは諸悪の根源でありました」と書いた野ばら氏、ご存知の通り(?)いろいろあったりなんだりで、今は京都の実家で暮らしているという。少し前のインタビューで、いろいろと周りのものも売ってしまって、印税は月100円ほど…と語っていましたが、それでもどこか飄々としている野ばら氏の今後の新たな展開が楽しみ!ということで、この日の読書会をとりあえずまとめたのでした(笑)。

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【とりたてで意味のない読書会 vol.48】
◆日時:11/24(土)19:00~
◆場所:コーヒーの大学院 ルミエール・ド・パリ(関内)
https://tabelog.com/kanagawa/A1401/A140104/14002242/
◆本:嶽本野ばら『ミシン』(小学館文庫)
https://amzn.to/2ThEho9
◆内容:コーヒーや紅茶を飲みつつ、本の感想について、テーマについてワイワイとお話します。

参加条件:
①開催日までに本を最後まで読めるひと
②話のなかで専門用語を多用したり特定の思想を強要しないひと(わかりやすい言葉で!)
参加費はありません。それぞれの飲食代、実費です。

※第一部は本の話中心に喫茶店で。その後場所を移して、第二部にしけこみます(第二部は有志の方のみ。途中脱出可)。
※年齢性別問わず、誰でも参加OKです。
※「読書苦手な人」「読書嫌いな人」の参加も歓迎します。初回のみ見学オッケーです。参加希望者はコメント、メッセージ、メールに
てカツマタ/サトウまでお気軽に連絡下さい。

とりたてで意味のない読書会FBページ

読書会vol.47 アガサ・クリスティ『ハロウィーン・パーティ』

昨日の読書会は、浅草の洋菓子店アンヂェラスで。知り合いが「世界一美味しい!」という名物レモンパイは残念ながら売り切れだったけど、私に似ていると言われる、馬場のぼる先生の11匹のネコのイラストが飾られたテーブルで、みんなが来る前にフライング瓶ビール。

この日は時期ということもあって、クリスティの名探偵ポワロシリーズの一作『ハロウィーン・パーティ』(原著1969年)。「私はとある殺人現場を見たことがある」と言い出した少女が、パーティ中に殺される。となると、その少女は口封じのために殺されたと考えるのがセオリーだけれど、彼女は高名な嘘つき。家族ですら「殺人を見ただなんて、目立ちたがり屋の嘘に違いない」と信用しない。そこでポワロが推理に乗り出すのだが、その人物の周りからの評判によって、つまり人びとの心理や思い込みによって、推理や操作が変形、とまではいかないまでも、少なくとも曇ってしまうという構造。

その構造を際立たせるためか、少女の死をあまり周りのひとたちが悲しんでおらず(嘘つきというだけで!)、悪口もバリバリという部分にちょっと違和感はあったけれど。いずれにせよ、「あんなことするような人に思えなかった」っていう「まさか」のオンパレードはワイドショーではおなじみであって、周りの印象はあくまでも勝手な印象でしかない、というところは数々の事件が証明している。ひとびとの心理なんてものは、推理にはあまりにも役に立たない。

2003年に初訳されたときの訳者あとがきには「ときおりミステリでも見かけられる(ハロウィンの)ドンチャン騒ぎのたぐいは、どちらかといえばアメリカに特有の現象だそうで、幸いにもこれだけは日本には定着しなかった」とあり、思わず苦笑いしてしまった(笑ってる場合じゃなさそうだが)。

作中にもでてきたのだが、欧米ではハロウィンにはりんごが重要だそうで(最初の被害者は「リンゴ食い競争」時に殺される)、おみやげはアンヂェラスのりんごパイ。締めは久しぶりに、おのぼり「電気ブラン」をいただいた静かな浅草の夜。

※カツマタ氏による読書会レポートはこちら

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アガサ・クリスティ/中村能三訳『ハロウィーン・パーティ』(早川書房、2003)

読書会vol.44 ミハル・アイヴァス『もうひとつの街へ』

6月の読書会は、予定していたゲストの方の参加が延期になりまして、急遽仕切り直して本を選び直すなどバタバタでした。ここ数回日本の作品が続いたので、今回は久しぶりに海外文学を読みたいねーと、チェコのミハル・アイヴァス『もうひとつの街』を読むことに。実は8月にチェコのイベントをやるので、そのネタを仕込みたくて、私がゴリ押ししたのですが(笑)。

「見知らぬ文字で書かれた本を発見した『私』が、入り込んだ『もうひとつの街』には異界が広がっていた。世界が注目するチェコ作家がおくる、シュールな幻想とSF的想像力に満ちた大傑作」、との紹介文。この手の本って、最初は読みづらいなーと感じたりするのですが、ふいにググッとその世界観に入り込めると、二重の世界を生きているようななんとも言えない感覚を味わえるのですよね。

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とはいえ、幻想小説はわれわれ読書会主宰者(ソフトフライド・サトウ=SFS、ハードボイルド・カツマタ)にとっては鬼門。それでもなんとか読み終え、当日、会が始まる前には会場近くのカフェでお茶するくらい、超余裕ぶっこいていた私でした。

そろそろ会場の「カフェ・レヴァンド」に行くかと歩き出したところ、なんだかオカシイ。ワタクシ、いわゆる「地図の読めない女」ではないのですが、この日は全く見当違いの場所をずんずん歩いていたのでした。再度地図を確認し、いざ!と思ったところで、ハードボイルド・カツマタ氏からメールが。「あのー、店がないようなんですけど」。

とにかく私も会場があるはずの場所に向うと、そこはガランとした空き家。通り過ぎるひとが「ここの喫茶店なくなったのぉ~?」なんてささやいています。まぁそういうことはいくらでもあり得ることですが、もぬけの空となった空間は、なんだか異世界に入り込んだ気にさせられます。否、カフェレヴァンドこそが「もうひとつの街」へ吸い込まれてしまったような・・・。

なんとも不思議な気分にさせられてスタートした今回の読書会。チェコの作家であり哲学論考なども執筆しているミハル・アイヴァスの『もうひとつの街』は、図書館や本がキーとなってくるという点からも、ボルヘスの世界観を継承する幻想小説。街や畑を駆け抜ける緑の大理石でできたバスやスキーのリフト、謎のサメとの格闘、テレビを運ぶイタチたち・・・といったように、次から次へと奇妙な会話や場面が出てくるのですが、「意味」に捉われすぎているカチカチの頭ではなかなかイメージが追いつかない!

物語は、主人公が古本屋でこの世のものではない文字で書かれた本をゲットするところから始まります。その本の「意味」を探していくうちに、どうやら「もうひとつの街」があるらしいことに気づき、その境界を行き来したりするのですが、その世界の中心にたどり着きたいと思っているあいだは、決して辿り着けない、旅立つことができない。そんなテーマは、最後の10ページあたりになって、ようやくクリアになっていきます。

「奇妙な謎はどういうことかというと、最終的な中心など存在せず、マスクの背後にいかなる顔をも隠れてはおらず、伝言ゲームの初めの言葉もなければ、翻訳されるテクストのオリジナルも存在しないということなのじゃ。そう、次々と変化を生み出す、回転し続ける変化というロープでしかない。先住民の街などなく、街という街が無限に連なる鎖でしかなく、変わりつづける法の波が容赦なく流れていく、終わりも、始まりもない円のようなものだ。・・・略・・・すべての街はそれぞれがたがいに中心であると同時に周縁であり、起源であると同時に終わりであり、母なる街であると同時に植民地なのだ」

このあたり、差延=ズレについて論じたフランスの思想家デリダの論考を書いている著者らしい文章です。

「去りゆくものがいなければ、故郷の規律は硬直し、息絶えてしまうだろう。出発は、対話の中断を意味するものではない。そしてまた、真の対話は、去りゆくものと留まる者とのあいだでのみ成立するのだ。同族同士の対話は、飽きもせずに自分の言葉のエコーに耳を傾けることにほかならない。対話というものは、故郷の内部に生きる者たちと、境界を越えて漂っているもの、つまり、衣擦れの音、怪物の叫びや唸り声、亡命者のオーケストラが数日間かけて演奏する楽曲が混じりあう喧噪、との偉大なる対話から栄養を得ているのだ」
そうして主人公は、目の前に停車した、緑の大理石のバスの方に歩き出す。いや~ここまで来るの、私にとってもほんと長い旅だったよ!!って思ってしまうわたしは、やはり「意味」の住人なのだなぁ・・・と。この本に書かれている言葉の世界を、意味で捉えようとするのではなく、イメージとして自由にたゆたう人から、ぜひお話を聞いてみたいなぁと思った会でした。でも、ビジュアル(アニメーションとか)にするとすごく面白い、そんな確信は持てたりはして。

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ミハル・アイヴィス『もうひとつの街』(河出書房新社、2013)

読書会vol.43 村上春樹『風の歌を聴け』

先週末の読書会の会場は、桜木町にある1933年創業のジャズ喫茶「ちぐさ」。創業者で店主の吉田衛氏が亡くなり、更には地域の再開発によって2007年に閉店したが、有志により2012年にちょっと場所を変えて復活、の伝説の店だという。

「ちぐさ」っていうからどんな店かと思っていたが、リアル・ガチ(?)なジャズ喫茶で、到着した時間には常連客のオジサマたちでいっぱい。外から眺めていたらみな同じ方向を向いて座っているので、一瞬「今日はライブでもあるんだろうか・・・」と思っていたら、スピーカーに向って座るよう席が配置されている、という。日本のジャズ喫茶について数々の本を書いたアメリカ人の日本文化研究者マイク・モラスキー氏が、「日本にしか生まれなかった文化」と言っている、日本の古きジャズ喫茶あるある、な(みなDJブースに向いて踊る、的な)。

今回の本が、ゲストのポピュラー文化研究者・宮入恭平氏のセレクトにより、村上春樹『風の歌を聴け』(1979年)だったもんで、港町のジャズ喫茶にしたのだけれど、なんかいつものようにダラダラ話してられる雰囲気じゃなかったので、早々に退散。。。(遅れた私は入店すらしてない)。しかし、久しぶりの桜木町、相変わらずの元気な街。何年か前、イベント・リハ関係で、桜木町ー野毛ー日ノ出町あたりに通っていたことがあって、帰り道日ノ出町のストリップ劇場・横浜ロック座を、仲間たちとそっと覗いたりしたもんだ。すかさず中から、「面接希望ですか~?」って声が聞こえてきたりして。

村上春樹の小説は、いやよいやよと言いながら割と読んでいる方だと思うのだけれど、本作は初めて。当時の(一部の)若者たちが受け取ったアメリカ文化のインパクト、当時この小説が世間に与えた「新しい風」みたいなものが感じられた(相変わらず、出てくる「女」のメンヘラっぽさが気になるところではあるが)。それにしても、アメリカ文化からの影響を受けているだけあって、それらの固有名詞はいろいろと出てくるんだけれど、日本のそれは「朝日新聞」と、あとどこかのバス名くらいだったと記憶している。さりげな~くだされるのが「朝日新聞」ってところに時代を感じたり。もっと俗っぽく「ミーハー」で「トレンディ」な固有名の羅列に注つけたのが『なんとなくクリスタル』(1980年)。

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カツマタ氏による前回の読書会の報告は読書会のフェイスブックページ
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マイク・モラスキー『ジャズ喫茶論ー戦後の日本文化を歩く』(2010年、筑摩書房)