読書会vol.48 嶽本野ばら『ミシン』

2軒目の沖縄料理居酒屋にて

48回目となる次回読書会は、嶽本野ばら著『ミシン』(小学館文庫)を読みました。”乙女のカリスマ”と呼ばれていた野ばら氏、映画がヒットした『下妻物語』(2002)が有名ですが、2000年に発表された本作は、野ばら氏の初期衝動が詰まっている小説デビュー作。パラパラっとめくっただけで、圧倒的な洋服への愛や、乙女の生きざまに、心がザワザワしてきます。きっと、私自身の”あの頃”の気持ちがよみがえってきて、懐かしくも、そこに「何か」置いてきてしまったような気がして、切なくなるからかもしれません。。。

仕事柄「服が売れない売れない」とぼやいている私ですが、作中に並ぶブランド名(記号)の数々、「まずはデパートメントに行こう。逃避行に先立ち、買いたいものがあるんだ」なんて文章を読むと、単純に「あの頃は良かった」なんてことは申しませんが、少し泣けてきます。

私は、野ばら氏のデビューエッセイ『それいぬ―正しい乙女になるために』(1998)を読んで、京都の河原町の老舗喫茶「ソワレ」に、フルーツポンチ食べに行ったクチですが、今回の会場も野ばら氏作品にはぴったり?な横浜は関内にある純喫茶「コーヒーの大学院 ルミエール・ド・パリ」。横浜近辺をフラフラしているカツマタ氏は、よくこの店の前を通っていたそうで、「ついに来ましたか!」、と(笑)。

この日は横浜スタジアムで特に催しもなかったようで、到着した19時頃にはすでにひっそりとしていた関内の街。そんな街でぼうっと光っていたのが、今回の会場「コーヒーの大学院 ルミエール・ド・パリ」の赤い看板。表には甲冑が飾られ、赤が基調となった店内には、大理石の壁、きらびやかなシャンデリア、ステンドグラス、そしてなぜか熱帯魚の水槽もあって、怪しさ満点。日本の古き良き喫茶店のありようを感じさせる、ごちゃまぜ感。
 
そこでページをめくった、『ミシン』。雑貨店で働く”ボク”と、そこに突如現れる全身Vivienne Westwoodで固めた少女との会話なき逃避行「世界の終わりという名の雑貨店」。ファッションブランドmilkをまとったパンクバンドの女性ボーカル”ミシン”と、ミシンに恋し自身もmilkのブティックに通いつめ、ついにはバンドのメンバーになって心を寄せ合う少女二人の物語「ミシン」の2作品がおさめられています。
 
あらすじからもわかるように、ファッションがポイントとなっている作品。というか野ばら氏にとって(野ばら氏が考える「乙女」にとって)、”お洋服”は非常に重要なもの。私であることを肯定してくれるものであり、そして社会から身を守る「鎧」でもあります。このあたりの「お洋服への愛」が、理解しづらく「??」となってしまった男性もいたようですが、女性参加者には大なり小なり身に覚えがあったようです笑。しかしまぁ、都築響一が『着倒れ方丈記』で撮ったような、お洋服(ブランド)の収集が注目されたのも今は昔。ユニクロやファストファッションの時代を経て、メルカリで売る・手放すことを前提としたブランド買いの今、ここで描かれているような”お洋服への愛”に触れると、隔世の感があります(もっとも、メルカリでやりとりされている服もユニクロが多いようですが。ユニクロが二次流通価値があるという時代、というべきか)。
 
どちらの物語も、本当は一つである自分の片割れ(ツイン)を見つけた喜びと、でも結局は一つになれない(なれなかった)悲しみが描かれています。「アナタとワタシ以外どうでもいい」という世界はいかにも「箱庭的」だという指摘もあったけれど、実際二人にとっては、周りの奴らは笑っちゃうほど単細胞な「へのへのもへじ」でしかなく、世界なんてどうでもいい(この辺が00年代の”セカイ系”とは異なるところである)。こういう「幼さ」が、ある意味「乙女」の強さであって、大人になるにつれ失われていくものなのかもしれません。実際野ばら氏も2016年のサイゾーのインタビューで「僕の作品って“はしか”みたいなもので、ある年代になったり、ある程度社会経験とかを経たら、醒めていく。通過点なんですよ」と述べています。
 
サブカルチャー研究の本山ともいえるイギリスでは、70年代から、多くのサブカルチャー研究は声が大きな男性中心の文化しか重要視しないけれど、少女たちはベッドルームのなかで密やかに文化を通した抵抗をしてきたと指摘してきましたが、いかにも夢みがちで逃避的な「乙女文化」は、既存の社会の価値観の拒否・否定であるともいえます。汚くて無教養で美意識のかけらもなくそして暴力的な”not 乙女”な奴らたちなんて知らない!美しいものだけに囲まれたい!その精神性こそが、乙女≒ロリータがパンクと接続されるゆえんでしょう。もちろんそれは、先にあげたように「通過点」であるのかもしれませんが。
 
「貧乏であることは僕の中で、ちっとも悪いことではありませんでした。しかし貧乏くさいことは諸悪の根源でありました」と書いた野ばら氏、ご存知の通り(?)いろいろあったりなんだりで、今は京都の実家で暮らしているという。少し前のインタビューで、いろいろと周りのものも売ってしまって、印税は月100円ほど…と語っていましたが、それでもどこか飄々としている野ばら氏の今後の新たな展開が楽しみ!ということで、この日の読書会をとりあえずまとめたのでした(笑)。

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【とりたてで意味のない読書会 vol.48】
◆日時:11/24(土)19:00~
◆場所:コーヒーの大学院 ルミエール・ド・パリ(関内)
https://tabelog.com/kanagawa/A1401/A140104/14002242/
◆本:嶽本野ばら『ミシン』(小学館文庫)
https://amzn.to/2ThEho9
◆内容:コーヒーや紅茶を飲みつつ、本の感想について、テーマについてワイワイとお話します。

参加条件:
①開催日までに本を最後まで読めるひと
②話のなかで専門用語を多用したり特定の思想を強要しないひと(わかりやすい言葉で!)
参加費はありません。それぞれの飲食代、実費です。

※第一部は本の話中心に喫茶店で。その後場所を移して、第二部にしけこみます(第二部は有志の方のみ。途中脱出可)。
※年齢性別問わず、誰でも参加OKです。
※「読書苦手な人」「読書嫌いな人」の参加も歓迎します。初回のみ見学オッケーです。参加希望者はコメント、メッセージ、メールに
てカツマタ/サトウまでお気軽に連絡下さい。

とりたてで意味のない読書会FBページ

読書会vol.44 ミハル・アイヴァス『もうひとつの街へ』

6月の読書会は、予定していたゲストの方の参加が延期になりまして、急遽仕切り直して本を選び直すなどバタバタでした。ここ数回日本の作品が続いたので、今回は久しぶりに海外文学を読みたいねーと、チェコのミハル・アイヴァス『もうひとつの街』を読むことに。実は8月にチェコのイベントをやるので、そのネタを仕込みたくて、私がゴリ押ししたのですが(笑)。

「見知らぬ文字で書かれた本を発見した『私』が、入り込んだ『もうひとつの街』には異界が広がっていた。世界が注目するチェコ作家がおくる、シュールな幻想とSF的想像力に満ちた大傑作」、との紹介文。この手の本って、最初は読みづらいなーと感じたりするのですが、ふいにググッとその世界観に入り込めると、二重の世界を生きているようななんとも言えない感覚を味わえるのですよね。

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とはいえ、幻想小説はわれわれ読書会主宰者(ソフトフライド・サトウ=SFS、ハードボイルド・カツマタ)にとっては鬼門。それでもなんとか読み終え、当日、会が始まる前には会場近くのカフェでお茶するくらい、超余裕ぶっこいていた私でした。

そろそろ会場の「カフェ・レヴァンド」に行くかと歩き出したところ、なんだかオカシイ。ワタクシ、いわゆる「地図の読めない女」ではないのですが、この日は全く見当違いの場所をずんずん歩いていたのでした。再度地図を確認し、いざ!と思ったところで、ハードボイルド・カツマタ氏からメールが。「あのー、店がないようなんですけど」。

とにかく私も会場があるはずの場所に向うと、そこはガランとした空き家。通り過ぎるひとが「ここの喫茶店なくなったのぉ~?」なんてささやいています。まぁそういうことはいくらでもあり得ることですが、もぬけの空となった空間は、なんだか異世界に入り込んだ気にさせられます。否、カフェレヴァンドこそが「もうひとつの街」へ吸い込まれてしまったような・・・。

なんとも不思議な気分にさせられてスタートした今回の読書会。チェコの作家であり哲学論考なども執筆しているミハル・アイヴァスの『もうひとつの街』は、図書館や本がキーとなってくるという点からも、ボルヘスの世界観を継承する幻想小説。街や畑を駆け抜ける緑の大理石でできたバスやスキーのリフト、謎のサメとの格闘、テレビを運ぶイタチたち・・・といったように、次から次へと奇妙な会話や場面が出てくるのですが、「意味」に捉われすぎているカチカチの頭ではなかなかイメージが追いつかない!

物語は、主人公が古本屋でこの世のものではない文字で書かれた本をゲットするところから始まります。その本の「意味」を探していくうちに、どうやら「もうひとつの街」があるらしいことに気づき、その境界を行き来したりするのですが、その世界の中心にたどり着きたいと思っているあいだは、決して辿り着けない、旅立つことができない。そんなテーマは、最後の10ページあたりになって、ようやくクリアになっていきます。

「奇妙な謎はどういうことかというと、最終的な中心など存在せず、マスクの背後にいかなる顔をも隠れてはおらず、伝言ゲームの初めの言葉もなければ、翻訳されるテクストのオリジナルも存在しないということなのじゃ。そう、次々と変化を生み出す、回転し続ける変化というロープでしかない。先住民の街などなく、街という街が無限に連なる鎖でしかなく、変わりつづける法の波が容赦なく流れていく、終わりも、始まりもない円のようなものだ。・・・略・・・すべての街はそれぞれがたがいに中心であると同時に周縁であり、起源であると同時に終わりであり、母なる街であると同時に植民地なのだ」

このあたり、差延=ズレについて論じたフランスの思想家デリダの論考を書いている著者らしい文章です。

「去りゆくものがいなければ、故郷の規律は硬直し、息絶えてしまうだろう。出発は、対話の中断を意味するものではない。そしてまた、真の対話は、去りゆくものと留まる者とのあいだでのみ成立するのだ。同族同士の対話は、飽きもせずに自分の言葉のエコーに耳を傾けることにほかならない。対話というものは、故郷の内部に生きる者たちと、境界を越えて漂っているもの、つまり、衣擦れの音、怪物の叫びや唸り声、亡命者のオーケストラが数日間かけて演奏する楽曲が混じりあう喧噪、との偉大なる対話から栄養を得ているのだ」
そうして主人公は、目の前に停車した、緑の大理石のバスの方に歩き出す。いや~ここまで来るの、私にとってもほんと長い旅だったよ!!って思ってしまうわたしは、やはり「意味」の住人なのだなぁ・・・と。この本に書かれている言葉の世界を、意味で捉えようとするのではなく、イメージとして自由にたゆたう人から、ぜひお話を聞いてみたいなぁと思った会でした。でも、ビジュアル(アニメーションとか)にするとすごく面白い、そんな確信は持てたりはして。

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ミハル・アイヴィス『もうひとつの街』(河出書房新社、2013)

<報告>読書会vol.38 トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』

すっかり遅くなってしまった前回(11月)の読書会のご報告です。1ヶ月半以上たっていて、記憶が曖昧なところもありますので、会の報告というよりは、「難解さ」についてちょっと考えてみました、的な内容になっております。ご容赦ください。(この会の告知はこちら

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もっとも難解な作家の一人と言われている作家ピンチョンの、もっとも読みやすいテキストと言われている『競売ナンバー49の叫び』。結局難しいのか読みやすいのかわからない表現ですが、まぁやはり決して読みやすくはありません笑。ミステリー風味ということもあって、先が気になる、というところはありますが、謎は解かれないというかむしろ深まるし、いわゆる一般的なミステリ小説を読むとき得られるような、謎解きのカタルシスはありません(この点ではポール・オースターの『シティオブグラス』が思い出されますが、オースターの方が断然エンタメ性が高いです)。

「マジックリアリズム」の定義に相応するかということはともかく、私が小説を読むときに感じられる「難解さ」は、幽霊とかスピリチュアルな超現実(に集約される)、ということではなくって、すごくわかりやすいレベルでいうと、普段私たちの頭のなかで渦巻いている、整然とせず・突拍子もなく・矛盾もたっぷりな言葉が、そのまま書かれているという点があげられます。心のなかで思っていることであれ、発する言葉であれ、小説の中の登場人物はたいてい、「てにをは」も文法上の間違いもせず、それが特に物語上(キャラクター設定上)必要でなければ、どもりもしなければ、言い間違いも勘違いもおかさない。非常に整理された言葉が並べられているわけです。「噛み合わない会話」がそれとして描かれるとき以外は、会話はたいてい噛み合っている。物語上必要でない会話は語られない。でも実際はそうじゃない。

しかし、「難解なテキスト」というとき、この「難解さ」ってなんなのでしょう、と。専門用語が多用されるとか、超現実的なSF世界の絵が描きにくいとか、登場人物の名前が覚えられない(ロシア文学あるある)など、「難しさ」にはいろいろとあると思いますが、ピンチョンの文章の難解さというのは、「マジックリアリズム」に分類されているということもあり、現実や日常の描写と、非日常的なもの超現実的なものの表現が同時になされていること、なのでしょう。

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そして大抵の小説は、神の視点か「主役」である登場人物の一つの視点で描かれることがありますが、様々な人物の視点、整然としていない思考や語り、が同時に並べられたとき、とても混乱してしまう。幽霊やスピリチュアルに限定されない、と書きましたが、脳はしばしば私たちを騙したり都合の良い映像を見せたりしますから、他の人が見ている現実とは違った絵が見えてくる場合もある。それぞれのリアルに同時に触れるという超現実。そうした、いわゆる神「客観的な現実」みたいなものをカッコに入れたときのリアルの難解さ、みたいなものがあるっていうことでしょうか。

40年近く生きていて言葉に触れる時間もまぁまぁ多い人生だと思っている私でも、最近になって読み間違いをしていたと気づいた漢字があって、「うわっ!」となりました。あまり日常会話で使う言葉ではなかったので気づかなかったのですが、これまで私の頭のなかでは、わけわかんない、wordでは決して漢字変換されない単語をずっと言い続けてたわけですよ(恥ずかしながら、実は結構その手の間違いはときどきあって。漢字変換しようと思ったらできず、「あれ?おかしいな?」と。そのとき初めて読み間違いに気がつく・・・)。しかも最近、自分の頭の中だけで言い間違えるだけでなく、その間違いを大勢の前で口にしたのです。しかも何回も。誰も何も言わなかったのですが、多分みなさん、私が何を言っているかわからなかったかもしれない。けど現実は、そのまま流れていくのです。わけわからないことを抱いたまま。

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「私どもは運がいいんです。ローレン・パサリンと言えば西海岸で最高の競売人ですが、そのひとが本日叫ぶことになっています」
「何をすることになっているんですって?」
「われわれのあいだでは、せり値をつけることを『叫ぶ』というのです」とコーエンが言った。
「あなた、ズボンの前があいています」とエディパはささやいた。

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トマス・ピンチョン/志村正雄訳『競売ナンバー49の叫び

とりたてで意味のない読書会

おしゃ読もvol.19 チャイナドレス

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【おしゃれして、書を読もう vol.19】
お久しぶりの「おしゃ読も」は、チャイナドレス de オフィス。

私は、旅先の古本屋で購入したジョン・ディクスン・カーの『三つの棺』(1935)を読んでおりました。日本での一般的な知名度はあまり高くないと思いますが、「海外のミステリ作家といえばジョン・ディクスン・カー」と言うミステリ好きは少なくありません。特に密室もので有名で、本書でも様々な密室的状況が用意されているのですが、醍醐味は作中で描かれる「密室講義」。探偵役によって、密室の分類が実例(作品例)とともに説明されています。もちろん、秘密の扉があるとか、凶器を通す穴があるとかは論外。

この作品はカーが、非常に複雑なプロットを考案していたころの作品ですが、なんというか、カーの作品はいわゆる「悪訳」がついて回っていたそうで、私が読んだ1979年の翻訳もちょっと。。。みなさまにはぜひ、2014年の新訳本を試していただきたいです!

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M本氏は、加藤元『うなぎ女子』(2017)。無類のうなぎ好きのM本氏、うなぎ本のチェックも抜かりが無いようです。何やらエッセイめいた匂いのするタイトルですが、鰻屋「まつむら」を訪れる、様々な人々の物語を描いた短編集。見合いをする頑固な大学教授、売れない俳優とやり手の女実業家の夫婦、ベストセラーを夢みる小説家…。深夜食堂みたいな感じだろうか?と想像しているわたし。この小説の影響かどうかわかりませんが、「ウサギ系女子の次は“うなぎ系女子”の時代!その5つの特徴とは?」なんつー記事(2017.10.16モデルプレス)がありました。その特徴、「よくクネクネ動いている」「掴めたと思ったらヌルッとすり抜けていく」って。。。さぁ、本を読もう。。

※撮影はS木さん。ありがとうございました。

●ファッションテーマ
チャイナドレス

●今日の一冊
SFS:ジョン・ディクスン・カー『三つの棺[新訳版]』(ハヤカワ・ミステリ文庫、1935=1979=2014)

M本:加藤元『うなぎ女子』(光文社、2017)