読書会vol.49 マヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』@喫茶ニット

今回は、前回の参加者、凄腕イベントプロデューサーA&ANSの矢田さんからのご推薦本、アルゼンチンの作家マヌエル・プイグによる『蜘蛛女のキス』。アルゼンチンで出版されたのは1976年、その後1979年にアメリカで英訳され、1985年にはエクトール・バベンコ監督によって映画化され(アメリカ・ブラジル合作)、主演のウィリアム・ハートはアカデミー賞主演男優賞を受賞している。集英社文庫において日本語訳が出たのは、その3年後の1988年(2011年に改訂版が出ている)。

私は未見だが、映画はアカデミー賞ほかさまざまな映画祭で賞をとっていることもあり、私や読書会周りでは「映画は見ているけど…」という声が多かった本作品、未成年者に対する性的行為で懲役となったトランスジェンダーのモリーナと、政治犯として収容されている革命家のヴァレンティンの(ほぼ)二人しか登場しない。全編にわたって、二人の会話によって物語が展開されていく。

モリーナ役のウィリアム・ハート

会話といってもその基本となるのは、モリーナがヴァレンティンに話して聞かせる、自分のお気に入りの映画のストーリー。驚くほど細部にわたって映画を描写するモリーナだが、もちろんそれはモリーナの解釈によるものであり、本当のところはわからない。考え方が全く異なるヴァレンティンは、しばしば茶々を入れ、批判をし、耳をふさぐが、どんな「物語」であっても牢獄という閉じられた空間においてそれがいかに貴重で、希望であることか。

監獄(社会から隔離された状況)における文化の貴重さというと、フランク・ダラボン監督による1994年のアメリカ映画「ショーシャンクの空に」(原作はスティーブン・キングの『刑務所のリタ・ヘイワース』)のあるシーンをめぐる、今は亡き父との会話を思い出す。劇中で、のちに脱獄に成功させる囚人のアンディは、監視の目を盗み、図書室から刑務所全館に音楽を流すというシーンがある。それはモーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」からの一曲、囚人たちは突如流れてきた音楽にびっくりし、じっとスピーカーを見つめ聴き入る。刑務所の中で厳かにクラシック音楽が流れるそのシーンは、映画だからこそ説得力のあるシーンであるといえよう(原作にはないようだ)。

囚人には、モーガン・フリーマン扮するアンディの仲間も含めアフリカ系アメリカ人もいるし、オペラなんてものに縁がなかったようなものたちも多いはず。そんな状況における「フィガロの結婚」。ブルース/ソウル至上主義だった父は「こんな音楽じゃなくてさぁ」と鼻で笑ったのだが、父のそんな至上主義にうんざりしていた私は、「いや、そうじゃなくて、この状況(環境)で聴く音楽であるということを考えるべき!」と反発したのだった。20年以上ろくに聴いていなかった音楽、そしてそれが思いがけず流れてきたら、どんなものでもギフトだと感じるのではないか。たとえそれが(私の忌み嫌う)ZARDの「負けないで」みたいな曲だったとしても。

革命に燃えるマッチョで学もある男ヴァレンティンは、夢見がちで自分にとって都合の良い解釈で映画を語るトランスジェンダーのモーリスを最初は軽蔑している。けれどメタメタに絶望に打ちひしがれた状況において、モーリスのポジティブさはやはり救いになる。かいがいしく汚物の処理をしたり、布団や差し入れの果物を分け与えたり。。。安易ではあるが、まるで母のような(しかし「母的」役割をするのはここでも「女役」である)。実はモーリスの背後には大きな力が控えていて、役割をもってヴァレンティンに近づいていたのだけれど、モーリス自身も次第に当初の目的が揺らぎ、ヴァレンティンに惹かれていく。そして二人は慰めあうかのようにキスをしセックスをするのだけど。

今回唯一の男性参加者であり、いわゆる”ノンケ”であるカツマタ氏に、もし自分がヴァレンティンと同じ状況下にいたら、モーリスとセックスするかと聞いてみた。するとカツマタ氏はしばし考えて、「うーん、それはないと思います」と答えた。その返答は尊重しつつも(そりゃどんな状況だって、選び拒否する権利はある!)、リベラルで開かれた考え方のカツマタ氏ですらそう答えるのを見て、私はふと、上記で書いたような(ショーシャンクのある場面をめぐる父との会話で感じたような)極限状態における渇望への想像が、というかそういう欲望も持ち得るであろうと表明することが、男同士のホモセクシャルではとかく難しいのかの、と感じたのだった(ついでにいえばこれは、男同士のホモセクシャルであると同時にホモソーシャルである。男と女であったら二人の友情や愛情のやり取りは、これほど感動的に受け止められたであろうか?)。

そんな風にいつもよりも色っぽい(?)会話が続いた今回の読書会。喫茶ニットが20時までだったので別の場所へと移動。飲めない方もいたということもあって、今回は2軒目も喫茶店(酒がある、という条件はつけさせてもらったが)に行く羽目になった。テーブル筐体が置いてあるまさにレトロな喫茶店。何も食べていなかたので、数少ないメニューの中からいくつか頼んでみたが、「うーーん。。。」となってしまうまさにレトロな喫茶店。

マヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』(集英社文庫)

ヘクトル・バベンコ「蜘蛛女のキス スペシャルエディション(DVD2枚組)」


読書会vol.44 ミハル・アイヴァス『もうひとつの街へ』

6月の読書会は、予定していたゲストの方の参加が延期になりまして、急遽仕切り直して本を選び直すなどバタバタでした。ここ数回日本の作品が続いたので、今回は久しぶりに海外文学を読みたいねーと、チェコのミハル・アイヴァス『もうひとつの街』を読むことに。実は8月にチェコのイベントをやるので、そのネタを仕込みたくて、私がゴリ押ししたのですが(笑)。

「見知らぬ文字で書かれた本を発見した『私』が、入り込んだ『もうひとつの街』には異界が広がっていた。世界が注目するチェコ作家がおくる、シュールな幻想とSF的想像力に満ちた大傑作」、との紹介文。この手の本って、最初は読みづらいなーと感じたりするのですが、ふいにググッとその世界観に入り込めると、二重の世界を生きているようななんとも言えない感覚を味わえるのですよね。

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とはいえ、幻想小説はわれわれ読書会主宰者(ソフトフライド・サトウ=SFS、ハードボイルド・カツマタ)にとっては鬼門。それでもなんとか読み終え、当日、会が始まる前には会場近くのカフェでお茶するくらい、超余裕ぶっこいていた私でした。

そろそろ会場の「カフェ・レヴァンド」に行くかと歩き出したところ、なんだかオカシイ。ワタクシ、いわゆる「地図の読めない女」ではないのですが、この日は全く見当違いの場所をずんずん歩いていたのでした。再度地図を確認し、いざ!と思ったところで、ハードボイルド・カツマタ氏からメールが。「あのー、店がないようなんですけど」。

とにかく私も会場があるはずの場所に向うと、そこはガランとした空き家。通り過ぎるひとが「ここの喫茶店なくなったのぉ~?」なんてささやいています。まぁそういうことはいくらでもあり得ることですが、もぬけの空となった空間は、なんだか異世界に入り込んだ気にさせられます。否、カフェレヴァンドこそが「もうひとつの街」へ吸い込まれてしまったような・・・。

なんとも不思議な気分にさせられてスタートした今回の読書会。チェコの作家であり哲学論考なども執筆しているミハル・アイヴァスの『もうひとつの街』は、図書館や本がキーとなってくるという点からも、ボルヘスの世界観を継承する幻想小説。街や畑を駆け抜ける緑の大理石でできたバスやスキーのリフト、謎のサメとの格闘、テレビを運ぶイタチたち・・・といったように、次から次へと奇妙な会話や場面が出てくるのですが、「意味」に捉われすぎているカチカチの頭ではなかなかイメージが追いつかない!

物語は、主人公が古本屋でこの世のものではない文字で書かれた本をゲットするところから始まります。その本の「意味」を探していくうちに、どうやら「もうひとつの街」があるらしいことに気づき、その境界を行き来したりするのですが、その世界の中心にたどり着きたいと思っているあいだは、決して辿り着けない、旅立つことができない。そんなテーマは、最後の10ページあたりになって、ようやくクリアになっていきます。

「奇妙な謎はどういうことかというと、最終的な中心など存在せず、マスクの背後にいかなる顔をも隠れてはおらず、伝言ゲームの初めの言葉もなければ、翻訳されるテクストのオリジナルも存在しないということなのじゃ。そう、次々と変化を生み出す、回転し続ける変化というロープでしかない。先住民の街などなく、街という街が無限に連なる鎖でしかなく、変わりつづける法の波が容赦なく流れていく、終わりも、始まりもない円のようなものだ。・・・略・・・すべての街はそれぞれがたがいに中心であると同時に周縁であり、起源であると同時に終わりであり、母なる街であると同時に植民地なのだ」

このあたり、差延=ズレについて論じたフランスの思想家デリダの論考を書いている著者らしい文章です。

「去りゆくものがいなければ、故郷の規律は硬直し、息絶えてしまうだろう。出発は、対話の中断を意味するものではない。そしてまた、真の対話は、去りゆくものと留まる者とのあいだでのみ成立するのだ。同族同士の対話は、飽きもせずに自分の言葉のエコーに耳を傾けることにほかならない。対話というものは、故郷の内部に生きる者たちと、境界を越えて漂っているもの、つまり、衣擦れの音、怪物の叫びや唸り声、亡命者のオーケストラが数日間かけて演奏する楽曲が混じりあう喧噪、との偉大なる対話から栄養を得ているのだ」
そうして主人公は、目の前に停車した、緑の大理石のバスの方に歩き出す。いや~ここまで来るの、私にとってもほんと長い旅だったよ!!って思ってしまうわたしは、やはり「意味」の住人なのだなぁ・・・と。この本に書かれている言葉の世界を、意味で捉えようとするのではなく、イメージとして自由にたゆたう人から、ぜひお話を聞いてみたいなぁと思った会でした。でも、ビジュアル(アニメーションとか)にするとすごく面白い、そんな確信は持てたりはして。

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ミハル・アイヴィス『もうひとつの街』(河出書房新社、2013)

読書会vol.39 スティーブン・ミルハウザー 『マーティン・ドレスラーの夢』

2018年一発目の読書会は、会の相方カツマタ氏のセレクトによる、スティーブン・ミルハウザー著、柴田元幸訳 『マーティン・ドレスラーの夢』(1996=2002)を読みます。もう来週に迫っているのに、まだ数ページしか読めておりませんが(汗)、舞台は19世紀後半~20世紀初頭のニューヨーク。ビルや商業施設が次々とでき、資本主義社会が確立していく様子は、エネルギッシュで、ワクワクさせられます(のちにさまざまなしっぺ返しが来るということを認識しつつも)。「ホテル経営者マーティンのアメリカン・ドリーム実現と失墜を描いた作品」ということで、現在トランプ政権下でグラグラしている現在のアメリカの「夢」なんかについても話せればと思っております。

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とりたてで意味のない読書会 vol.39】
◆日時:1/27(土)19:00~
◆場所:紅鹿舎(日比谷)
https://tabelog.com/tokyo/A1301/A130102/13002146/
◆本:スティーブン・ミルハウザー 柴田元幸訳 『マーティン・ドレスラーの夢』(白水社、2008)
◆内容:コーヒーや紅茶を飲みつつ、本の感想について、テーマについてワイワイとお話します。

詳細はFacebookの告知投稿にて
この会の報告(by ハードボイルド・カツマタ)

それにしても、ミルハウザーの翻訳本、どれも装丁がすてき。

ロージナ茶房にて

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昨夜、中川五郎さんの歌を聴いた昨年12月5日のブログを書いたのだけれど(当ブログは相当タイムラグあります!急に、何年か前の記事をあげるかもしれない…笑)。今日、国立の滝乃川学園さんで午前中一仕事終えたあと、久しぶりに国立のロージナ茶房でランチすることになり、好物のメガ盛り(お店のデフォルトです)ビーフストロガノフを食べていたら、隣の席に中川五郎さんがお座りになる、という(五郎さんは国立在住)。たまたま今日の私の連れが、先日五郎さんと対バンした方だったということもあり、タイミングを見計らってご挨拶。

五郎さんが国立のギャラリービブリオで不定期で開催している「中川フォークジャンボリー」というイベントがあるのだが、中山ラビさんがゲストだった回(2015年10月)に行ったという話や、先月の地球屋でのライブの話をしたら「うん、(君のこと)なんか、覚えてるよ」、と。「中川フォークジャンボリー」では、イベント終了後「田舎の法事的」な飲み会がはじまるので、そこで飲んでいた姿を覚えていらっしゃったのかもしれない。そのときの連れ、強烈なひとだったし、、そういえば私も豹柄のコートを着ていたかも。。

ともかく、昨日は頭のなかにいた人が、今日は隣の席でご飯食べていたもんで。ブコウスキーの話もしたかったなぁ。まぁ国立にいれば、そのうちそんな機会もあるでしょう。

しかし、相変わらずのロージナのメガ盛りっぷりに一瞬ひるんだが、どうにか完食。ホッとしたのもつかの間、今日はこのあと、駅弁を大量に試食するという業務があったということをすっかり忘れていたのだった。。※いや、嘘、正直チラッとそのことが脳裏をかすめたのだが、この魅力には抗えませんでした。。。好物のストロガノフ(ドミグラスソース)一から作ろうと思うとなかなか手間なので、食べられるチャンスは逃したくないのです。

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↓こういうのはどうなんでしょうかねぇ。シャルキュトリーのビーフストロガノフか・・・。
ビーフストロガノフ 冷凍 400g
ビーフストロガノフ冷凍(シャルキュトゥリ・コイデ)400g

<報告>読書会vol.38 トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』

すっかり遅くなってしまった前回(11月)の読書会のご報告です。1ヶ月半以上たっていて、記憶が曖昧なところもありますので、会の報告というよりは、「難解さ」についてちょっと考えてみました、的な内容になっております。ご容赦ください。(この会の告知はこちら

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もっとも難解な作家の一人と言われている作家ピンチョンの、もっとも読みやすいテキストと言われている『競売ナンバー49の叫び』。結局難しいのか読みやすいのかわからない表現ですが、まぁやはり決して読みやすくはありません笑。ミステリー風味ということもあって、先が気になる、というところはありますが、謎は解かれないというかむしろ深まるし、いわゆる一般的なミステリ小説を読むとき得られるような、謎解きのカタルシスはありません(この点ではポール・オースターの『シティオブグラス』が思い出されますが、オースターの方が断然エンタメ性が高いです)。

「マジックリアリズム」の定義に相応するかということはともかく、私が小説を読むときに感じられる「難解さ」は、幽霊とかスピリチュアルな超現実(に集約される)、ということではなくって、すごくわかりやすいレベルでいうと、普段私たちの頭のなかで渦巻いている、整然とせず・突拍子もなく・矛盾もたっぷりな言葉が、そのまま書かれているという点があげられます。心のなかで思っていることであれ、発する言葉であれ、小説の中の登場人物はたいてい、「てにをは」も文法上の間違いもせず、それが特に物語上(キャラクター設定上)必要でなければ、どもりもしなければ、言い間違いも勘違いもおかさない。非常に整理された言葉が並べられているわけです。「噛み合わない会話」がそれとして描かれるとき以外は、会話はたいてい噛み合っている。物語上必要でない会話は語られない。でも実際はそうじゃない。

しかし、「難解なテキスト」というとき、この「難解さ」ってなんなのでしょう、と。専門用語が多用されるとか、超現実的なSF世界の絵が描きにくいとか、登場人物の名前が覚えられない(ロシア文学あるある)など、「難しさ」にはいろいろとあると思いますが、ピンチョンの文章の難解さというのは、「マジックリアリズム」に分類されているということもあり、現実や日常の描写と、非日常的なもの超現実的なものの表現が同時になされていること、なのでしょう。

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そして大抵の小説は、神の視点か「主役」である登場人物の一つの視点で描かれることがありますが、様々な人物の視点、整然としていない思考や語り、が同時に並べられたとき、とても混乱してしまう。幽霊やスピリチュアルに限定されない、と書きましたが、脳はしばしば私たちを騙したり都合の良い映像を見せたりしますから、他の人が見ている現実とは違った絵が見えてくる場合もある。それぞれのリアルに同時に触れるという超現実。そうした、いわゆる神「客観的な現実」みたいなものをカッコに入れたときのリアルの難解さ、みたいなものがあるっていうことでしょうか。

40年近く生きていて言葉に触れる時間もまぁまぁ多い人生だと思っている私でも、最近になって読み間違いをしていたと気づいた漢字があって、「うわっ!」となりました。あまり日常会話で使う言葉ではなかったので気づかなかったのですが、これまで私の頭のなかでは、わけわかんない、wordでは決して漢字変換されない単語をずっと言い続けてたわけですよ(恥ずかしながら、実は結構その手の間違いはときどきあって。漢字変換しようと思ったらできず、「あれ?おかしいな?」と。そのとき初めて読み間違いに気がつく・・・)。しかも最近、自分の頭の中だけで言い間違えるだけでなく、その間違いを大勢の前で口にしたのです。しかも何回も。誰も何も言わなかったのですが、多分みなさん、私が何を言っているかわからなかったかもしれない。けど現実は、そのまま流れていくのです。わけわからないことを抱いたまま。

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「私どもは運がいいんです。ローレン・パサリンと言えば西海岸で最高の競売人ですが、そのひとが本日叫ぶことになっています」
「何をすることになっているんですって?」
「われわれのあいだでは、せり値をつけることを『叫ぶ』というのです」とコーエンが言った。
「あなた、ズボンの前があいています」とエディパはささやいた。

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トマス・ピンチョン/志村正雄訳『競売ナンバー49の叫び

とりたてで意味のない読書会

<告知>読書会vol.38 トマス・ピンチョン『競技ナンバー49の叫び』

「『謎の巨匠』の『探偵小説』仕立ての、暗喩に満ちた迷宮世界。ある夏の日の午後、主人公エディパは、大富豪ピアス・インヴェラリティの遺言管理執行人に指名されたことを知る。偽造切手とは?郵便ラッパとは?立ち現われる反体制的なコミュニケーションの方法とその歴史」

38回目となる読書会では、難解で知られるトマス・ピンチョン(1937ー)の作品のなかでも「読みやすい」と言われている『競売ナンバー49の叫び』を読みます。ピンチョン入門書と言われているだけあって、たっぷりと暗喩についての注(解説)がついています。むしろ注を読むのがメインとなりそう、、ですが、その作業は田中康夫の「なんクリ」のそれとは、だいぶノリが違うことでしょう(笑)。

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某作家さんと同じように、長年ノーベル賞候補と囁かれながら、公に姿を現さず、インタビューも受けず、情報ダダ漏れ社会の現代においても、発見されている写真は学生時代、軍隊時代のもの2点だけだとか。いろいろググっていたら、ライターの米光一成氏による「匿名は卑怯か?ネット社会を1966年に予見!?『競売ナンバー49の叫び』」といったエッセイを発見しました。覆面、匿名、といったキーワードを意識して読むのも面白いかも。

※写真は全集のカバーデザインです

【とりたてで意味のない読書会 vol.38】
◆日時:10/28(土)19:00~ →11/25に延期になりました!
◆場所:いーはとーぶ(元住吉)
◆本:トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』(ちくま文庫2010など)
◆内容:コーヒーや紅茶を飲みつつ、本の感想について、テーマについてワイワイとお話します。

参加条件:
①開催日までに本を最後まで読めるひと
②話のなかで専門用語を多用したり特定の思想を強要しないひと(わかりやすい言葉で!)

参加費はありません。それぞれの飲食代、実費です。

※第一部は19:00~21:00くらいまで本の話中心に。21:00以降はときに場所を移して、第二部にしけこみます(第二部は有志の方のみ。途中脱出可)。
※年齢性別問わず、誰でも参加OKです。
※「読書苦手な人」「読書嫌いな人」の参加も歓迎します。初回のみ見学オッケーです。参加希望者は下記リンクFBページよりお問い合わせください。

とりたてで意味のない読書会

読書会vol.37 ブラッドベリ『塵よりよみがえり』

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次回の読書会は、会の相方カツマタ氏がセレクターで、ブラッドベリの『塵よりよみがえり』(2002=2005)を読みます。ブラッドベリといったら、『華氏451度』(1953年)とか、『たんぽぽのお酒』(1957年)といった50年以上前の作品の印象が強く、2002年というごく最近(こう言うと、二十歳前後の学生たちはきょとんとし、私ははっとするw)のものは全く存じ上げておりませんでしたが、映画化もすすんでいる作品のようです。

この会では本のセレクターが会場も決めるのですが、今回は、新宿にある、猫がいる喫茶店、となりました。本書15Pの「最初に猫がやってきた、一番乗りをはたすために」ってフレーズが決め手となったようですが、特に猫好きではないわたしは、完全スルーの一文でしたね。。。

見学も、お茶飲みも、二次会参加もお気軽に。

第37回読書会のお知らせ
第37回読書会の報告

とりたてで意味のない読書会

<報告>読書会vol.36 明石散人『鳥玄坊 時間の裏側』

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国内外からの観光客であふれる横浜中華街を小走りに歩き、目的地「萬來行カフェ」へと急ぐ。前回中華街に来たのも読書会のためだった。もっともそのときは、行こうと思っていた喫茶店は、店主の「気まぐれ」のため閉まっていたのだけれど。

カフェの外ではたくさんの人が行き来しているにもかかわらず、階下のお土産屋には多くの客が群がっているにもかかわらず、カフェからは一人、また一人と客が帰っていき、広い店内でとうとう私たちだけになってしまう。まるで鳥玄坊一派の力が働いているかのようだ。

レジに座っているスタッフは、本当は何者なんだろう?食事は出せないとのことだが、レジ横の寸胴には一体何が入っているのだろう?参加者の一人が、頼んだコーヒーにほとんど口をつけないのはなぜだろう?いろいろな「?」が、頭のなかで錯綜する。

とまぁ、今回の読書会の課題本、明石散人『鳥玄坊 時間の裏側』は、こんな文章書きたくなるような(?)不可思議な小説でした。大地震の前兆として沖に上がるリュウグウノツカイと謎の女・亜玖梨。そこから、地震が引き起こされる地層の構造や、昔話「浦島太郎」に隠された秘密などに繋がっていく、大雑把にジャンル分けすれば「歴史ミステリー」なのですが。。。

会の相方カツマタ氏がFBで書いていましたが、「作者の思想を物語的に吐き出したような作品」で、前面的に展開されているのは明石氏の思想的研究であり、「物語」の展開としては「???」という部分が多々あり、その一つ一つを突っ込んでいく、、という作業になった今回の読書会でした。美術作品の解釈については、ギャラリーに勤務する参加者より「ここはちょっと違うんですよね」といった意見もあったり。

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鳥玄坊シリーズの2作目となる今作には、謎の研究機関、時空も操るような超能力を持つ鳥玄坊がほとんど出てこないので、そういった意味でも、煙に包まれたような印象を参加者のみなさんに抱かせてしまったようです。「せっかくなので、1作目、3作目にトライしてみてください」といったとたん、空気が「ピーン」(「シーン」?)となったのも鳥玄坊一派の力が働いていたのか。

鳥玄坊の魔法から解けたあとは、萬來行カフェ近くの中華料理屋「山東」で餃子や飲茶をつつきました。

37回目となる次回は、9月30日(土)に東京で開催。課題本はレイ・ブラットベリの『塵よりよみがえり』です!お楽しみに。

とりたてで意味のない読書会

<告知>読書会vol.36 明石散人『鳥玄坊 時間の裏側』

20882066_1423138154445346_4544926485883634034_n写真はみなとみらい21」より

相変わらずギリギリになってからのお誘いになってしまい申し訳ありませんが、次回読書会は来週土曜(26日)に行います。本は、明石散人『鳥玄坊 時間の裏側』。ちょっと極端というか、ギョッとするような思想が見え隠れするところがありますが、、、そんなところも含めて、ざっくばらんにおしゃべりしたいと思います。

明石氏のこと、ご存じない方も多いと思いますが、実は京極夏彦の師匠。噂では「有名作家が創作した架空人物」という話もあるようです。そんなことつゆ知らず、なんとなく古本屋でゲットして、なんとなく読んでみたのですがーー。

物語のあまりの壮大さにクラクラさせられました。。築地に謎の研究機関をかまえる鳥玄坊が知的導き手なのですが、彼の設定は「年齢不詳で、2万年前のことを『少し前』と言うなど、太古の出来事まで自分が経験してきたように語る。〜通貨取引のシステムの考案者で、そのコミッションだけで年間5000億ドルも鳥玄坊の元に入ってくる」という。。そんな鳥玄坊さんは、シリーズ1作目では、富士樹海の地下空間から、地球成立よりも古い変成岩が見つけてしまうのです。。。(引用はウィキペディアより)。

莫大な資金を元に、世界のなぞ解きをする、そんな鳥玄坊さんシリーズから、今回は時空の謎にせまる作品をピックアップしました。最初にあらすじをお話しし、ちょっとした解説もしますので見学ご希望の方もどうぞお気軽に。

会場は、異空間気分を味わえる、横浜中華街内の素敵な喫茶店「萬來行カフェ」で。2次会では飲茶つつこうかと思います。

【とりたてで意味のない読書会 vol.36】
◆日時:8/26(土)19:00~
◆場所:萬來行カフェ(横浜中華街)
◆本:明石散人『鳥玄坊 時間の裏側』(講談社文庫1997=2002)
◆内容:コーヒーや紅茶を飲みつつ、本の感想について、テーマについてワイワイとお話します。

参加条件:
①開催日までに本を最後まで読めるひと
②話のなかで専門用語を多用したり特定の思想を共用しないひと(わかりやすい言葉で!)
参加費はありません。それぞれの飲食代、実費です。

※第一部は19:00~21:00くらいまで本の話中心に。21:00以降はときに場所を移して、第二部にしけこみます(第二部は有志の方のみ。途中脱出可)。
※年齢性別問わず、誰でも参加OKです。
※「読書苦手な人」「読書嫌いな人」の参加も歓迎します。初回のみ見学オッケーです。

参加希望者はフェイスブックページよりお問い合わせください。
とりたてで意味のない読書会

<報告>読書会vol.33 ベケット『ゴドーを待ちながら』

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謎に満ちたおかしな人物たち、かみあわない会話、妙な時間軸、とくに何も起こらず、何も進まず、何も解決しない、という不毛さ。大団円やお涙ちょうだいの悲劇に回収されてしまうような、それまでの演劇を否定したベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』(1952)は、その後の演劇や表現のあり方に大きな影響を与えた「不条理演劇」の嚆矢、とされる。

登場人物たちが繰り広げる、ちぐはぐで要領を得ないやりとりは、ときにくすっと笑えるユーモラスなものであるけれど、こうした「不毛さ」の出自的背景には、「人間性」や「理性」をズタズタにしてしまった第二次世界大戦がある。疲弊・諦め・虚しさ・怒り、何たって戦争そのものが不条理なのだから。

そんな作品であるからこそ、アメリカの批評家スーザン・ソンタグ(1933-2004)は、サラエボ・ヘルツェゴビナ紛争の戦下にある1993年のサラエボで、『ゴドー』の舞台演出をしている。当然「こんなときに、しかも、こんな作品を」という声はあったが、「こんなときだからこそ」。実際に、気楽に外出できるような状況ではないにもかかわらず、会場はお客さんでぎゅうぎゅうだった。
3年半ものあいだ狙撃兵に包囲され、いわば見放されていたサラエボの瓦礫のなかで、「ゴドーは今日は来ない、しかし明日には必ず来るだろうという使いの言葉に続くウラディミールとエストラゴンの長い悲劇的な沈黙のとき」、ソンタグは涙したという。けれど、読書会でも指摘があったが、待てど暮らせどゴドーがやってこない状況を打開?しようと、主人公たちは自殺しようとあれこれ画策するが、でも結局しない、のだ。

そして2011年8月には、福島第一原発30km圏内の路上で、劇団かもめマシーンによる『ゴドー』が上演された。もちろん主宰者は、ソンタグのサラエボでのゴドーに影響を受けていると述べているが、あらゆる価値観が宙吊りになったときにふっと召喚される、作品なのかもしれない。絶対に来ないゴドーを、でも明日も待つ、という作品が。

と、読書会からやや離れたところに話が及んでしまったけれど、それだけ広がりを持った作品であるということがいえよう。パロディ/オマージュ作品も多く、例えば、いとうせいこう『ゴドーは待たれながら』、ラーメンズ『後藤を待ちながら』、別役実『やってきたゴドー』なんてのもある。それらも気になるけど、やっぱり『ゴドー』の舞台を見てみたいよね、となった33回目の読書会でした。
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●サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら
●スーザン・ソンタグ『サラエボで、ゴドーを待ちながら エッセイ集2
●佐々木敦『シチュエーションズ 「以後」をめぐって』(かもめマシーンについての記述)